柳生石舟斎【無刀取り】

シン・ニホンジン

天下一の兵法「柳生新陰流」

宮本武蔵を描いたマンガ『バガボンド』にも登場する剣の達人、柳生石舟斎こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし)は、戦国時代の1527年に現在の奈良市に生まれます。

若い時は、富田流や新当流など色々な流派を学んでいます。

その後戦なども経験した宗厳ですが、34歳の時に運命的な出会いがあります。

剣聖と讃えられる新陰流の祖、上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)との出会いです。

上泉信綱が奈良に立ち寄った際に、宗厳は信綱の弟子に敗北、弟子入りして信綱の剣を学んでいます。

信綱は翌年自分の考える「無刀取り」のさらなる発展を宗厳に託して柳生を離れます。

その2年後に宗厳は、無刀取りを完成させ信綱から「新陰流目録」を与えられています。

宗厳の人生は決して順風満帆なものではありませんでした。

宗厳56歳の時、豊臣秀吉政権下では、太閤検地に伴い柳生の隠し田が見つかり、領地を没収されて一族が困窮しています。

その後、宗厳は64歳で剃髪し石舟斎と名乗ります。

翌年転機が訪れます。宗厳(石舟斎)65歳の時、京都に立ち寄った徳川家康に「無刀取りを見せてくれ」と宿舎に招かれます。

そこで宗厳は、木刀を振りかぶる家康から難なく木刀を奪取してみせます。

家康の信頼を得た石舟斎は、家康の元で働くよう請われますが辞退して、代わりに息子の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)を推薦します。

石舟斎はその後1606年、徳川2代目将軍秀忠の頃、78歳で亡くなっています。

息子宗矩は、関ヶ原の戦いでも活躍し、大名にも取り立てられ、徳川将軍家の兵法指南役も務めることとなり、柳生新陰流が「天下一の兵法」と呼ばれるまで発展したのでした。

無刀取り

無刀取りは、「無刀取りとは必ずしも相手の刀を取らねばならぬことではなく、自分が無刀の折に相手を制する技である」「相手を恐れず敵の間合いに入り、切られて取るという気構えが大事」とされています。

単に素手から相手の武器を奪い取る技術自体が奥義なのではなく、何事にも執着しない自由さを実現させる技量と心の持ちようの事だと感じました。

兵法家伝書

宮本武蔵の『五輪書』と並び称される『兵法家伝書』は、近世武道書の二大巨峰といわれています。『兵法家伝書』は石舟斎の子である柳生宗矩によって1632年に書かれた柳生新陰流の伝書です。

内容は、「進履橋(しんりきょう)」「殺人刀(せつにんとう)」「活人剣(かつにんけん)」の三部構成となっています。

「進履橋」は父石舟斎から相伝された新陰流の形についての目録となっています。

この伝書で取り上げたい部分は「平常心」についてです。

 ・絶対勝とう

 ・しっかりと技を使おう

 ・自分の実力を存分に出そう

 ・相手に対して攻めかかっていこう

 ・相手の動きを待っていこう

これらは全て心が囚われている状態、つまり心が不自由な状態だそうです。

またこれらの事を心から消し去ろうとする心の状態もまた心が不自由な状態です。

命がかかった状況下で「平常心」でいることこそ極意なのだと感じました。

おわりに

この時代の戦は既に鉄砲が普及しています。それ以前も弓矢や長槍での死者が大半で、戦における刀の技術というものは、そこまで必要とされていないはずです。

それにも関わらず、剣術が高く評価されていたのは、武士としての生き方、心の修め方の役割が大きかったのではないでしょうか。

また、柳生新陰流は「禅」の思想も色濃く反映されています。

現代において主に海外のビジネスパーソンから再注目されている禅ですが、こんな昔から脈々と剣を通じて僕たち剣道家にも受け継がれている事を想像すると胸が熱くなってきます。

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