なぜ今、剣の歴史なのか?
かつてこの国は、良い大学さえ出ていれば良い企業に就職して、将来が安泰という時代がありました。
しかし現代は、人類史上経験した事がない程、変化が激しい世の中です。
自然界の掟は、環境に適応できた種が生き残るようになっています。他の者より強いだけでは生き残れないのです。
今回、剣道家として剣の歴史を振り返ってみようと思ったのは、過去を知る事で、未来が予測できて、今何をするべきかが見えてくるのではと思ったからです。
何事も歴史を知らないと、視野が狭くなり、長期的な目線での答えが出せなくなるのではないでしょうか。
短期での正解は、必ずしも長期的な正解とは限りません。
こんな時代だからこそ、歴史を知る事が大切な気がしてならないのです。
第1回目は、戦国時代の兵法家、塚原卜伝です。
僕は歴史の専門家ではありませんので、分かりやすさ重視で書いていこうと考えています。
是非一緒に過去を振り返って、あなたなりの発見をして下さい。
塚原卜伝(つかはらぼくでん)とは
塚原卜伝は、戦国時代の兵法家(1489年〜1571年)で鹿島新当流(かしましんとうりゅう)という流派を開いた人です。
卜伝は、鹿島神宮の神職の子として生まれ、17歳で武者修行の旅に出ます。
その後、足利家の家来に取り立てられた卜伝は、戦場に37回出ますが、受けた傷は矢による傷が6ヶ所のみで、合計212人の敵を斬り倒したと言われており、天下無敵と言っても言い過ぎではないでしょう。
生涯無敗の卜伝ですが、人の死を経験し過ぎたせいか、心を病み、30歳頃に地元に戻って、再び剣術修行に没頭します。
地元に戻った卜伝ですが、師の教えに従って鹿島神宮に1000日間こもり自己の剣を見つめ直します。
その時、自分も相手も存在せず、ただ無心で太刀と一つになるという不思議な感覚になり「一之太刀」が開眼したと言われています。
ちなみに彼が開いた新当流ですが、「心を新しくして事に当たれ」という神示からきているとされています。
卜伝が亡くなったのは3度目の修行から帰郷した1571年、83歳の負け知らずの生涯でした。
「一之太刀」とは
さて、気になる秘義「一之太刀」ですが、結論からいうとよく分かりません(笑)
剣術の奥義は、伝承する者に口伝で伝えるため詳しくは分かりません。
そんな中でもある資料にはこんな事が書かれています。
「およそ一箇の太刀の内、三段の差別あり。第一、一つの位とて天の時なり。第二は一つの太刀とて地の利なり。是にて天地両儀を合比し、第三、一つの太刀とて人和の功夫に結要とす。当道心理の決徳なり。」
ますます分からなくなった読者の方すみません。
また神道流伝書という書物にはこんな記載もあるそうです。
「鹿島の一つの太刀とは、太刀を後ろに引くように持ってもよく、振りかぶってもよい。太刀で体を防ぐことなく、体を敵に向い無防備の状態にしておく。隙に誘われた敵が打ってくると、その太刀先が我が身より一寸(約3センチ)以上離れておれば見捨て、五分(約1.5センチ)以内に斬り込んでくれば、こちらから踏み込んで相手を斬る。これを一寸のはずれ、五分のはずれという。
人は太刀先が一寸離れておれば恐怖を抑えることが出来ても、五分に接近すると反射的に身を引こうとする。その時、反対に踏み込み、密着するつもりで斬る。この技を一つの太刀というのである。」
雰囲気だけでも感じていただけたでしょうか。
塚原卜伝の価値観
下克上で世が乱れていた当時、生涯無敗だった塚原卜伝はどんな価値観を持っていたのでしょうか。
ただ人を合理的に斬るだけの人ではなさそうです。
こんなエピソードが残っています。
卜伝には3人の養子がいました。
自身の家督を譲る際に、ふすまを開けると木枕が上から落ちてくる仕掛けで息子達がどういう反応をするか試したそうです。
三男は落ちてきた木枕を真二つに切って入ってきました。
次男は木枕が落ちてくるとさっと退いて、刀の柄に手をかけ、落ちてきた物が木枕であることを確認して入ってきました。
長男は、仕掛けを見破ると、木枕を取り除いて部屋に入ってきました。
これを見た卜伝は長男に家督を譲りました。
ただ人を斬る技術だけを磨き上げた人物ではない事が感じられます。
戦続きの世の中だからこそ、先を読み無用な戦いは避ける。
相手の太刀の間合いを見切る。
どちらも「観る力」のレベルが尋常じゃない気がします。
剣道の一眼二足三胆四力の「眼」って実はもっと奥が深い気がしてきました。
コメント